2018年12月2日 エレミヤ書33章14~16節
見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。 その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。 その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。
「主は我らの救い」とありますが、これは以前の口語訳では「われらの正義」となっておりました。聖書の原語であるヘブライ語のツァデカーという言葉は、第一義的には「正義」として訳される言葉であり、他の訳でも「正義」となっているものは多数あります。新共同訳は、このエレミヤの言葉を、アドベントやクリスマスの時期によく引用されるイザヤ書/ 11章 01節との関連で、キリスト預言としての性格を明瞭にするために「救い」と訳されたのであろうと考えられます。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち」という御言葉で、讃美歌248番にもこの聖句は用いられており有名です。
この神様がイスラエルとユダの人々に約束されているということは、自明のことではありません。非常に変わった、聖書の特別性と異常性を表現している言葉です。
なぜならば、神様が、人間に約束をするということは、偶像礼拝ではほとんどあり得ないことだからです。神社をお考えになってみてください。受験やら安産やら商売繁盛、家内安全やら結婚やらいろいろなことにご利益があるという神様があります。そして、お百度参りをしたり、祈祷をしていただいたり、お賽銭をしたりします。それらはすべてしかし、私たちの願いや望みが叶うことを私たちの方から願うことであって、しかも、それらの願いは、大抵の場合、私たちが生きている間に叶うことが大前提です。受験では、その試験に受からなければ意味がありません。「いつかお前の子孫は一流大学に入るだろう」などというご宣託を頂いてもなんのありがたみもないでしょう。安産や家内安全、商売繁盛などについて祈るときも同じです。大抵は、現状がそこそこ家内安全で今年も守られますようにとか、商売などについては、「大損をしたけれども、なんとか乗り越えて、いつか儲かりますように」というようなことを祈るでしょうし、また、神様の言葉としても、「いつかきっと儲かるようになる」というようなことはあり得ます、しかし、「主なる神様は、私たちの救い」とか、「私たちの正義」というようなことが、言われることはありません。
先日、聖書を学ぶ会でお話しさせていただいたのですが、日本の国家である「君が代」では、「君の世、つまり天皇陛下のご支配が、長く続きますように」ということを歌っていますが、「神様の約束が果たされますように」とか、「正義がなりますように」「公平な世の中がきますように」ということは歌われていないのです。つまり、この君が代における正義は、陛下の御代が末永く続くということであって、公平や正義、また世の中がよりよくなっていくということは、第二義的なことなのです。
そうすると、貧しい者は常に貧しく、虐げられている人は永遠に虐げられていてもそれは不条理なことでもなんでもなく、仕方のないこととなってしまいます。「そんなおかしな社会が存続することが許されるのか?」と疑問に思うかもしれません。しかし、そのような社会は、むしろ好んで維持されてきました。なぜならば、私たち一人一人が、神様の正義とか公平などに価値を置いていないからです。そして、私たちにとっても、私たちが長生きすること、私の思い、つまり人間である私の思いが実現することを願っているので、天皇の支配が長く続くことを肯定しているのです。私が正義と公平を行うことが、人生の目標ではなく、私の行うことが正義であり、私が納得して取り扱われることが公平となっていて、他人がどのように自分より不公平に扱われようが関係ないからです。
私たち一人一人が、自分の主人であり、王であるので、その私たちが一つの社会を構成する時、おのずと王が生まれてくるのです。ですから、聖書の中には、イスラエルの民が、自分たちも他の国々のように王を持ちたいと願ったとき、神様がそれを喜ばれないという考えがあるわけです。
そして、イスラエルの王は、自分が神として崇められるのではなく、神に仕える者として身を低くした王ダビデによって確立されます。ダビデは、自分の思いがなるのではなく、神様の御心に従うことを第一とした王でした。ウリヤの妻バテシバとのスキャンダルがありますが、その悪を預言者ナタンに指摘されたとき、悔い改めています。これはダビデがいかに神様に忠実であったかを示しています。なぜならば、このようなことは、通常、話題にもならないからです。その様相は、現代もそれほど変わりません。
「神様が約束を果たしてくださる日を待ち望む」とは、どのようなことを意味するのでしょうか?それは、神様が約束を果たしてくださる日を待ち望むのですから、自分が不公平に扱われ、不当に扱われても、究極のところ、敵対する相手のために神の祝福を祈るということです。つまり、自分で自分の正義を主張して相手をやっつけないということであり、公平と正義を行われる主を待ち望むということは、自らの思いを超えた、公平と正義に従うというということです。ですから、そこには謝罪があり、謝罪があるので、赦しがあるということです。
自分が支配する領域において、それは自分の思いのままを行ってもいいと考えるのではなくて、神の公平と裁きを思いつつ、謙遜に自らの判断、行動を決定するということです。
神による公平と正義と救いが行われる日が来ると預言されています。これは実に預言です。神を信じるということは、この神の公平と正義に信頼して生きるということです。ですから、それは苦難の道です。なぜならば、この世は神の公平と正義を重んじたりはしないからです。預言であるということは、この神の公平と正義は、未だにこの世に行われていないということだからです。
私たちの主イエス・キリスト、神の子がこの世に現れたのは、神の公平と正義がこの世に現れたのです。
「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。」
イエス・キリストは、この預言の成就です。なぜならば、最初に申し上げましたようにイエス・キリストはダビデのために生え出た正義の若枝だからです。主イエス・キリストは、この世に現れた公正と正義そのものです。イエス・キリストを信じ、従っていくということは、この公正と正義に従って行くということです。
ご自分の正義を振り回すのではなく、他人の正義によって裁かれることをイエス様は良しとされました。公正であられる方が、不公正な裁きによって裁かれることを良しとされました。イエス様は、私たちの罪のため、あらゆる屈辱を忍耐されました。これはものすごいことであり、信じられないことです。
イエス・キリストの復活は、私たち信じられるかもしれません。しかし、このイエス様が、唯々諾々とファリサイ人や律法学者たちの不当な仕打ちを耐えられたのは、当然のことではありません。それは実は、復活を信じるよりも困難なことではないかと私は思います。
イエス様は、たくさんの病人を奇跡によって癒されました。目の見えない人や手足の不自由な人も癒されました。教えも素晴らしいものでした。にもかかわらず、イエス様がなさったこと全てを否定するようにして、人々は、「十字架につけろ。十字架につけろ」と、叫んで、イエス様を十字架につけたのです。十字架につけるということは、死刑にして殺すということです。
この仕打ちに対するイエス様の態度は、本当に信じられないものです。人間は犯罪者であっても、少しでも自分に正当性があるとその正当性を主張する者です。それなのにイエス様は、その正当さを主張されませんでした。これはなにか、何も悪いことをしていないのに、拷問にかけられて、それでも口を割らなかったというようなこととは全く違うのです。それは、自分の正義を守っているのですから、理解できます。
「あの人にあの時、あんなことを言われた」ということを私たちは生涯忘れず、繰り返し、繰り返し言い続けるような人間です。陰口や噂で裁かれたら、大変に悲しい思いをしていてもたってもいられません。それはものすごいストレスになります。「私にあんなひどい言葉を言った人は早く死ねばいい」とか、「神様、あの人を罰して殺してください」とか簡単になんの抵抗もなく思うのです。不当なことを言われたら、私たちは向き直って、相手をやっつけようとします。その場では直接手を下さなくても、心の奥底で「今に見ていろ」と思って復讐の炎は心の奥で燃え盛っています。ところが、イエス様は、私たちが決して忘れないようなある人のひどい仕打ちなどとは比べものにならないような屈辱を受けて、「今に見ておれ」とか、「なぜ、お前たちはこんな不当なことをするのか」とはおっしゃらなかったのです。屈辱を自ら受けられたのです。それは驚異的なことです。
今年、10月に開催された日本基督教団の総会で、私たちと交流のある大洗ベツレヘム教会の故郷であるインドネシア本国のミナハサ福音キリスト教会と日本基督教団が宣教協約を締結しました。私は日本基督教団の牧師として、かつて戦争時代にご迷惑をかけたミナハサの人々への謝罪の意味もあり、また自分がドイツで外国人としてお世話になった恩返しのような意味で、助けを求められたら、どんなことでもできることはするようにしてきました。インドネシアの教会が分裂をして、関東教区や茨城地区がインドネシアの人たちとの交流を止めると言った後も交流支援を続けてきました。そして、あちこちの教会にベツレヘム教会の聖歌隊を派遣して、理解を求めてきました。
大げさかも知れませんが、公平と正義をもって私は大洗ベツレヘム教会の方々と接してきたつもりです。そうすると、私の立場は、どんどん苦しくなってくるということを体験しました。労働問題などで、「助けてください」ということになると、私は立場上助けることになります。そうすると大洗の会社の日本の人々からは嫌われることになりました。
10月25日、東京で日本基督教団とミナハサ福音キリスト教会の宣教協約が調印されている頃、私は、少年院の少年の面接をしていました。それは、牧師として素晴らしい栄誉を神様はくださったのだと私は思いました。
「公平と正義をもってこの国を治める」ということは、確かにイエス・キリストにおいて実現したではないでしょうか?その公平と正義は、かつてのテレビ時代劇の「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」とか「大岡越前」などのような勧善懲悪もののように、私たちの胸がスカッとするようなことではありません。それは、私たちの復讐欲が満たされているだけです。そうではなくて、公平と正義は、イエス様のように捕らえられて、侮辱され、殺されたという十字架の出来事の中に行われているのです。そして復活は、イエス様の十字架の苦難の中に確かに「公平と正義を持ってこの国が治められる」ということが成就したことの証明なのです。イエス・キリストの苦難において、確かに神の公平と正義が支配し、私たちは神の支配のもとに生かされているのです。
なぜならば、イエス・キリストを信じる者はすべて、その罪が赦されて、永遠の命を神様から与えられるからです。そこには、異邦人もユダヤ人もなく、男も女もありません。すべての人が平等に扱われ、私たちは神の正義を身にまとうことができるからです。
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私たちの主イエス・キリストに栄光が限りなくありますように。
この時、イエス様の次の御言葉の正しさが光り輝き出します。
「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
私たちの苦難は喜びの時です。なぜならば、それは私たちに神の公平と正義が臨んでいるからです。エレミヤの預言が成就しているからです。そして確かに私たちは救いの内にあることを苦難は証明しているからです。
「主は我らの救い」とありますが、これは以前の口語訳では「われらの正義」となっておりました。聖書の原語であるヘブライ語のツァデカーという言葉は、第一義的には「正義」として訳される言葉であり、他の訳でも「正義」となっているものは多数あります。新共同訳は、このエレミヤの言葉を、アドベントやクリスマスの時期によく引用されるイザヤ書/ 11章 01節との関連で、キリスト預言としての性格を明瞭にするために「救い」と訳されたのであろうと考えられます。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち」という御言葉で、讃美歌248番にもこの聖句は用いられており有名です。
この神様がイスラエルとユダの人々に約束されているということは、自明のことではありません。非常に変わった、聖書の特別性と異常性を表現している言葉です。
なぜならば、神様が、人間に約束をするということは、偶像礼拝ではほとんどあり得ないことだからです。神社をお考えになってみてください。受験やら安産やら商売繁盛、家内安全やら結婚やらいろいろなことにご利益があるという神様があります。そして、お百度参りをしたり、祈祷をしていただいたり、お賽銭をしたりします。それらはすべてしかし、私たちの願いや望みが叶うことを私たちの方から願うことであって、しかも、それらの願いは、大抵の場合、私たちが生きている間に叶うことが大前提です。受験では、その試験に受からなければ意味がありません。「いつかお前の子孫は一流大学に入るだろう」などというご宣託を頂いてもなんのありがたみもないでしょう。安産や家内安全、商売繁盛などについて祈るときも同じです。大抵は、現状がそこそこ家内安全で今年も守られますようにとか、商売などについては、「大損をしたけれども、なんとか乗り越えて、いつか儲かりますように」というようなことを祈るでしょうし、また、神様の言葉としても、「いつかきっと儲かるようになる」というようなことはあり得ます、しかし、「主なる神様は、私たちの救い」とか、「私たちの正義」というようなことが、言われることはありません。
先日、聖書を学ぶ会でお話しさせていただいたのですが、日本の国家である「君が代」では、「君の世、つまり天皇陛下のご支配が、長く続きますように」ということを歌っていますが、「神様の約束が果たされますように」とか、「正義がなりますように」「公平な世の中がきますように」ということは歌われていないのです。つまり、この君が代における正義は、陛下の御代が末永く続くということであって、公平や正義、また世の中がよりよくなっていくということは、第二義的なことなのです。
そうすると、貧しい者は常に貧しく、虐げられている人は永遠に虐げられていてもそれは不条理なことでもなんでもなく、仕方のないこととなってしまいます。「そんなおかしな社会が存続することが許されるのか?」と疑問に思うかもしれません。しかし、そのような社会は、むしろ好んで維持されてきました。なぜならば、私たち一人一人が、神様の正義とか公平などに価値を置いていないからです。そして、私たちにとっても、私たちが長生きすること、私の思い、つまり人間である私の思いが実現することを願っているので、天皇の支配が長く続くことを肯定しているのです。私が正義と公平を行うことが、人生の目標ではなく、私の行うことが正義であり、私が納得して取り扱われることが公平となっていて、他人がどのように自分より不公平に扱われようが関係ないからです。
私たち一人一人が、自分の主人であり、王であるので、その私たちが一つの社会を構成する時、おのずと王が生まれてくるのです。ですから、聖書の中には、イスラエルの民が、自分たちも他の国々のように王を持ちたいと願ったとき、神様がそれを喜ばれないという考えがあるわけです。
そして、イスラエルの王は、自分が神として崇められるのではなく、神に仕える者として身を低くした王ダビデによって確立されます。ダビデは、自分の思いがなるのではなく、神様の御心に従うことを第一とした王でした。ウリヤの妻バテシバとのスキャンダルがありますが、その悪を預言者ナタンに指摘されたとき、悔い改めています。これはダビデがいかに神様に忠実であったかを示しています。なぜならば、このようなことは、通常、話題にもならないからです。その様相は、現代もそれほど変わりません。
「神様が約束を果たしてくださる日を待ち望む」とは、どのようなことを意味するのでしょうか?それは、神様が約束を果たしてくださる日を待ち望むのですから、自分が不公平に扱われ、不当に扱われても、究極のところ、敵対する相手のために神の祝福を祈るということです。つまり、自分で自分の正義を主張して相手をやっつけないということであり、公平と正義を行われる主を待ち望むということは、自らの思いを超えた、公平と正義に従うというということです。ですから、そこには謝罪があり、謝罪があるので、赦しがあるということです。
自分が支配する領域において、それは自分の思いのままを行ってもいいと考えるのではなくて、神の公平と裁きを思いつつ、謙遜に自らの判断、行動を決定するということです。
神による公平と正義と救いが行われる日が来ると預言されています。これは実に預言です。神を信じるということは、この神の公平と正義に信頼して生きるということです。ですから、それは苦難の道です。なぜならば、この世は神の公平と正義を重んじたりはしないからです。預言であるということは、この神の公平と正義は、未だにこの世に行われていないということだからです。
私たちの主イエス・キリスト、神の子がこの世に現れたのは、神の公平と正義がこの世に現れたのです。
「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。」
イエス・キリストは、この預言の成就です。なぜならば、最初に申し上げましたようにイエス・キリストはダビデのために生え出た正義の若枝だからです。主イエス・キリストは、この世に現れた公正と正義そのものです。イエス・キリストを信じ、従っていくということは、この公正と正義に従って行くということです。
ご自分の正義を振り回すのではなく、他人の正義によって裁かれることをイエス様は良しとされました。公正であられる方が、不公正な裁きによって裁かれることを良しとされました。イエス様は、私たちの罪のため、あらゆる屈辱を忍耐されました。これはものすごいことであり、信じられないことです。
イエス・キリストの復活は、私たち信じられるかもしれません。しかし、このイエス様が、唯々諾々とファリサイ人や律法学者たちの不当な仕打ちを耐えられたのは、当然のことではありません。それは実は、復活を信じるよりも困難なことではないかと私は思います。
イエス様は、たくさんの病人を奇跡によって癒されました。目の見えない人や手足の不自由な人も癒されました。教えも素晴らしいものでした。にもかかわらず、イエス様がなさったこと全てを否定するようにして、人々は、「十字架につけろ。十字架につけろ」と、叫んで、イエス様を十字架につけたのです。十字架につけるということは、死刑にして殺すということです。
この仕打ちに対するイエス様の態度は、本当に信じられないものです。人間は犯罪者であっても、少しでも自分に正当性があるとその正当性を主張する者です。それなのにイエス様は、その正当さを主張されませんでした。これはなにか、何も悪いことをしていないのに、拷問にかけられて、それでも口を割らなかったというようなこととは全く違うのです。それは、自分の正義を守っているのですから、理解できます。
「あの人にあの時、あんなことを言われた」ということを私たちは生涯忘れず、繰り返し、繰り返し言い続けるような人間です。陰口や噂で裁かれたら、大変に悲しい思いをしていてもたってもいられません。それはものすごいストレスになります。「私にあんなひどい言葉を言った人は早く死ねばいい」とか、「神様、あの人を罰して殺してください」とか簡単になんの抵抗もなく思うのです。不当なことを言われたら、私たちは向き直って、相手をやっつけようとします。その場では直接手を下さなくても、心の奥底で「今に見ていろ」と思って復讐の炎は心の奥で燃え盛っています。ところが、イエス様は、私たちが決して忘れないようなある人のひどい仕打ちなどとは比べものにならないような屈辱を受けて、「今に見ておれ」とか、「なぜ、お前たちはこんな不当なことをするのか」とはおっしゃらなかったのです。屈辱を自ら受けられたのです。それは驚異的なことです。
今年、10月に開催された日本基督教団の総会で、私たちと交流のある大洗ベツレヘム教会の故郷であるインドネシア本国のミナハサ福音キリスト教会と日本基督教団が宣教協約を締結しました。私は日本基督教団の牧師として、かつて戦争時代にご迷惑をかけたミナハサの人々への謝罪の意味もあり、また自分がドイツで外国人としてお世話になった恩返しのような意味で、助けを求められたら、どんなことでもできることはするようにしてきました。インドネシアの教会が分裂をして、関東教区や茨城地区がインドネシアの人たちとの交流を止めると言った後も交流支援を続けてきました。そして、あちこちの教会にベツレヘム教会の聖歌隊を派遣して、理解を求めてきました。
大げさかも知れませんが、公平と正義をもって私は大洗ベツレヘム教会の方々と接してきたつもりです。そうすると、私の立場は、どんどん苦しくなってくるということを体験しました。労働問題などで、「助けてください」ということになると、私は立場上助けることになります。そうすると大洗の会社の日本の人々からは嫌われることになりました。
10月25日、東京で日本基督教団とミナハサ福音キリスト教会の宣教協約が調印されている頃、私は、少年院の少年の面接をしていました。それは、牧師として素晴らしい栄誉を神様はくださったのだと私は思いました。
「公平と正義をもってこの国を治める」ということは、確かにイエス・キリストにおいて実現したではないでしょうか?その公平と正義は、かつてのテレビ時代劇の「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」とか「大岡越前」などのような勧善懲悪もののように、私たちの胸がスカッとするようなことではありません。それは、私たちの復讐欲が満たされているだけです。そうではなくて、公平と正義は、イエス様のように捕らえられて、侮辱され、殺されたという十字架の出来事の中に行われているのです。そして復活は、イエス様の十字架の苦難の中に確かに「公平と正義を持ってこの国が治められる」ということが成就したことの証明なのです。イエス・キリストの苦難において、確かに神の公平と正義が支配し、私たちは神の支配のもとに生かされているのです。
なぜならば、イエス・キリストを信じる者はすべて、その罪が赦されて、永遠の命を神様から与えられるからです。そこには、異邦人もユダヤ人もなく、男も女もありません。すべての人が平等に扱われ、私たちは神の正義を身にまとうことができるからです。
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私たちの主イエス・キリストに栄光が限りなくありますように。
この時、イエス様の次の御言葉の正しさが光り輝き出します。
「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
私たちの苦難は喜びの時です。なぜならば、それは私たちに神の公平と正義が臨んでいるからです。エレミヤの預言が成就しているからです。そして確かに私たちは救いの内にあることを苦難は証明しているからです。
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